「内モンゴルから見た中国現代史」出版記念・学術講演会報告 | 一般社団法人 南モンゴル自由民主運動基金 Webサイト

「内モンゴルから見た中国現代史」出版記念・学術講演会報告


「内モンゴルから見た中国現代史」出版記念・学術講演会が、6月20日、午後2時から、東京の会議室にて開催されました。参加者は約60名、半分は日本在住のモンゴル人が参加、ボヤント氏の出版を祝いました。

最初に著者のボヤント氏が登壇。まず、処女作の内容ついて話を始めました。内容要旨は、現代中国政府が、周辺地域の民族に対して、特にモンゴル人に対して統治した問題を政治的、法的立場から対象として研究したものであること、そして、チベット、ウイグルなどと同様、建前上は他民族の自治を認めているはずの中国で様々な問題が起きているのは何故かを、内モンゴルの事例を基に考察していったことを述べました。

そして、研究対象としては、内モンゴル東北地域、ホルチン左翼後旗という中国では県レベルの行政機関を選んだ、(1)39万人の人口を持ち、モンゴル人は28万で7割以上はモンゴル人が住んでいる(2)歴史的にモンゴル人が遊牧生活をしていたが、近現代になってから農業移管生活、農業を営みながら牧畜を営む生活となった(3)また満洲国時代に後旗は興安南省に属され、日本の近代教育の影響を深く受けた、などの理由から、この地を研究対象としたと述べました。

そして、研究資料は、中国の公文書、当時の文献、そして当時を知る人たちへのインタビュー証言を使ったと述べ、その理由として、仮に日本やアメリカ、台湾などの資料を使った場合、必ず中国政府から「資本主義国の歪んだ情報」「帝国主義者がねつ造した偽の反中国情報」を使って中国の政策を批判したと言われるので、まず、中国政府自らの資料に根ざして研究を行ったことを述べました。

更に、研究の時期としては、未だに中華人民共和国が成立していない1945年、第二次世界大戦終戦時期からはじめ、満州国が崩壊してそこが事実上中国共産党の影響下に入ってから、「土地解放」と言われる、モンゴル人の私有地を国有地に変えていったのが、最初の中国政府の内モンゴルにおける「政治運動」の始まりだと述べました。そして、研究対象のホルチン左翼後旗ではこれが最も最初期に開始され、遼寧省から漢族を連れてきてその運動をおこなわれたと指摘しました。その後、宗教弾圧から、「反革命」とみなされた人々の弾圧、文化大革命時期など、1979年までの時期を研究したこと、その間、中国政府は「地・富・反・壊・右」の5つの勢力を弾圧対象とみなしてきたと指摘しました。

具体的には、地主と富農とその子供たちを地主分子とか富農分子、反動的人物、反革命者にはまた社会主義に反対する人 、共産党に反対するもの、漢人幹部に反対するモンゴル人も反革命者になる、また、モンゴル人の民族主義者、満州時代日本人と協力したか日本の学校に行って授業を受けた人、国民党に関係ある人、日本に留学した人、日本の軍隊に入った人や日本の小中学校に生徒を移して入った人、知識人、ラマ、これらすべてが「悪」とみなされ、それに基づいてモンゴルにおける教育が徹底的に行われ、教科書はモンゴル伝統や宗教を完全否定し、モンゴル人たちはその洗脳教育を受けて、無神論者、共産党支持者に変えられていったと述べました。特に、モンゴルの民謡や歌謡も、中国式の革命家に変えられ、たとえ曲はそのままでも歌詞を共産党讃美に変えていき、また、モンゴル人同士を分裂させ、また公開の場で自己批判をさせて侮辱するなど、あらゆる手段がとられたと指摘しました。

その結果として、内モンゴルは中国共産党にとって「模範自治区」となり、そこでの成功した弾圧の方式がそのままウイグルやチベットに持ち込まれていったこと、そして、現在の香港やマカオ、そしてもしかしたら将来の台湾や日本にとっても決して他人事ではないと警告を告げたのち、ボヤント氏はさらに詳しく中国政府の政策について論じていきました。

1945年8月、大戦末期に、関東軍顧問金川耕作氏が、ホルチン左翼後旗に日本軍人100あまりと共に訪れ、そこでモンゴル人と共に警察大隊を編成した事、しかし、15日の終戦後、金山氏と日本人大隊は日本を目指してモンゴルを離れることになり、その際、金川氏が「あなたたちの故郷は貧しいので、これを役立ててください」と言って武器と弾薬を後旗の人々に渡して行ったというエピソードを挙げ、モンゴル人と日本との戦前、戦中の関係をよく表すものだと述べました。そして、1945年当時と、48年、中国の土地改革が終わった時期を比べれば、モンゴルは地元の馬と羊を大量に中国に奪われてしまい、満州時代よりはるかにひどい収奪が行われたことを事実に基づいて指摘しました。馬は、国民党との戦争に軍馬として使われ、羊は人民解放軍や官僚が栄養豊富な食料として摘発していったと指摘しました。


また、45年当時に比べ、48年段階ではラマ僧の数が激減し、無神論者や共産主義者が増大していく、そして、仏壇や仏像の代わりに毛沢東の像が崇拝対象として売られていくような馬鹿げたことも起きて行った、さらに、1958年の中国政府の資料によれば、ラマ僧を中間派、右派、左派と当委員会によって区分けし、「右派」とみなしたラマを徹底的に侮辱詞攻撃するなど、宗教弾圧を徹底して行い、信仰を持つ人々を減らしていったことを指摘しました。

この様にモンゴルの伝統が否定されていく中、自殺していくモンゴル字が出てきたことをボヤント氏は指摘し、公文書では「民衆に摘発されて自殺した」と述べているが、明らかに中国政府の支配下で弾圧のために自殺したこと、また、大躍進の時代に内モンゴルでも大量の餓死者が現れ、60年10月から61年3月30日までに920人の住む村で40人が餓死したことが尊重の報告として公文書に残っていること、さらには文化大革命の時代、1968年の10月から1969年の5月までに、7000人が死んだことがこれも公文書に改定あると、ボヤント氏は中国の公的記録に基づいて内モンゴルで何が起きたかを指摘しました。

中国政府は現在、文化大革命における冤罪で被害を受けた人々に補償金を出すことになっているが、11000人の交流、迫害の被害者のうち、1300人ほどに僅かな金額が支払われたに過ぎない、また、大躍進・文化大革命の時代、人口の約3パーセントを、富農として処刑するということが公式に行われ、この公開処刑の恐怖がモンゴル人を沈黙させたこと、殺されたり還俗させられたラマの数字は2万人に及ぶことなどをボヤント氏は指摘しました。

そして、これらの弾圧の結果として、モンゴル人の民族的誇りであり祖先であるはずのチンギスハンの記憶やモンゴルの歴史伝統は破壊され、工業は環境を破壊し砂漠化が進み、その結果黄砂は日本にまで飛んでいくようになった、さらに、内モンゴルの地下資源は中国に強奪され、特に貴重なレアアースは中国の総埋蔵量の96%は内モンゴルから出ていることなどが述べられ、そしてチベットでも少し時期が遅れた形で同様なことが行われているとボヤントした中国政府の民族政策は共通していることを指摘しました。

たとえばチベットのラサの博物館では、毛沢東の肖像画が飾られ、チベットは毛沢東と共産党のおかげで発展したという宣伝が今現在行われているが、これは内モンゴルでは80、90年代末に既に行われていた、中国語を学べば幸せになれるとか、中国陣とチベット人の結婚を招来する、そして中国とチベットの団結を讃えるような宣伝は、モンゴルでも確実に行われていたものであることを指摘しました。

そして、チベットでも、内モンゴルでも、現実の民衆は苦しい生活をしている、砂漠化した牧草地で、子供たちがごみを拾って生活し、それなのに、中国人がモンゴル人から取り上げた土地で豚を買うための飼料を栽培している、このような現実に、内モンゴルの厳しい未来が象徴されていると述べて講演を終えました。

続いて静岡大学教授楊海英氏が登壇、ボヤント氏の処女作出版に祝辞を述べたのち、日本のモンゴル研究の歴史の流れの中で、この本をどういう風に位置づけるべきかについて論じる所から公演を始めました。

まず、日本はモンゴル研究においては実は世界的にもトップレベルであり、岩村忍による元朝秘史の翻訳は世界的にも早い時期に行われ、岡田英弘、杉山正明、そして若い学者も沢山出ていることを述べ、また人類学の面でも梅棹忠夫、小長谷有紀各氏の名前を挙げました。そして、梅棹氏の仕事に象徴されるように、日本の文化人類学はフィールドワーク先は南モンゴルが重要な地域だったことを述べました。

そして、1980年代以後、内モンゴルのモンゴル人が「旧宗主国」である日本に大挙してやってきたことを「20世紀の蒙古襲来」として紹介し、また同時期に、梅棹さんの弟子の小長谷有紀さんが、1991年、「季刊民族学」という国立民族学博物館の雑誌に、彼女がシリンゴルへ行った時の写真を大々的に使って、とても読みやすい文章でモンゴルについての文章を連載し、日本のモンゴル学が復興するきっかけになったことを述べました。

しかし、モンゴル国(当時はモンゴル人民共和国)に行けばフィールドワークも出来ますし、アルヒーフも読めるけれども、小長谷さんあたりが南モンゴル、内モンゴルへ行くと、フィールドワークは出来るんですが、アルヒーフは読ませてもらえなかった、それは殆どの研究者が同様だと楊氏は指摘しました。その後、若いモンゴル学者が現地に行ったときに、研究テーマとして何を選んだかと言えば、主に環境問題、教育問題、そしてオボ祭祀だったと楊氏は述べました。なぜこの3つが選ばれたかと言えば、まず、故郷である内モンゴルに行けば、現実にそこにあるのは破壊された環境であり、そして、荒ま爺勢いで奪われていくモンゴル言語である、これを研究し、改善しなければならないというのは当然学者として考えることだと述べました。

そしてオボ祭祀もそうです。オボというのは昔のシャーマニズムであり、モンゴル人全ての故郷にもある、それは日本のどんな田舎に行っても祠や神社があるようなもので、モンゴ ル人はオボを通して大地と天に家畜の繁殖をお祈りする。だからオボ祭祀を研究するというのは伝統文化を研究することを意味すると楊氏は指摘した上で、しかし、残念なことに、このオボ祭祀を除けば、モンゴルの伝統は内モンゴルではほとんど失われてしまい、実は伝統について研究しようとするとこれしかテーマにできなくなってしまっているのだと楊氏は述べました。

そして、研究テーマとしてこの3つが中心になってしまうというのは、実は、内モンゴル研究において「民族問題」というテーマを事実上タブー視してしまっていることからきている、環境を破壊したのは誰か、母国語を喪失に追い込んだのは誰か、伝統文化が無くなって、オボ祭祀しか知らないような状況に追い込んだのは誰か、という基本的な問題に取り組む勇気と姿勢がないからこそ、環境問題、教育問題、オボ祭祀といったテーマしか選べないのだと、楊氏は厳しく最近のモンゴル研究姿勢について批判しました。そして、この民族問題、モンゴル人の精神が殺された歴史というのは、決して文化大革命に始まるものではない、文化大革命の前奏曲は1962年からの 社会主義教育運動、四清運動に始まっている、そしてその前奏曲は1958年からの反右派闘争であり。その前は1951年まで続く反革命分子を鎮圧する運動、その前は1947年からの土地改革であって、一歩一歩、ステップ・バイ・ステップで民族の精神が殺されてきたことを楊氏は指摘しました。そして、ボヤント氏のこの著作は、内モンゴルの現代史を民族問題としてまとめて論じてくれたことに大きな意義があることを高く評価しました。

そして、内モンゴルの飼料は確かに宗主国であった日本にはかなりあり、それを基に研究する学者も増えているけれども、少し懸念していることがある、何よりも、モンゴル人自身が欠いたものが一次資料として一番大事なはずだと楊氏は原則論を述べました。そして、清朝が崩壊した後、モンゴル高原ではボグド・ハーン政権が成立するけれども、南モンゴルのおよそほとんどの旗がボグド・ハーン政権に帰順していったという歴史的事実があり、モンゴル国へ行けば国立のアイリーフセンターへ行けば、このダガンオロフの帰順するアイリーフを研究者は必ず読んでいく、それなのに、南モンゴルで現在行われている教科書では愛国的な王侯貴族はボグド・ハーン政権に反対したと書いているけれど、これは全くの嘘だと指摘しました。

また、1925年には 内モンゴル人民革命党が誕生し、その後、日本の進出によって満州国が成立すると、内モンゴル人民革命党は地下に潜伏し、満州国の隣にはモンゴル自治邦が誕生する。しかし、当時日本では、この自治邦を蒙疆と呼び、現在でもその言葉が使われているが、これは大変問題だと思うと楊氏は批判しました。それは、当時の徳王政権は、明確にその言葉が大嫌いで、何回か来日した折にも、徳王は必ず「蒙古」という言葉を使っている。蒙疆といえば中国の辺境という意味だが、蒙古といえば民族、言語、祖国を意味する。このことは日本の側も改めてほしいし、最近、「ニセチャイナ―中国傀儡政権 満洲・蒙疆・冀東・臨時・維新・南京 (20世紀中国政権総覧)」という本を書いた広中一成という若い研究者に対しても、その業績はもちろん評価するけれども、その点では批判させてもらったと述べました。

そして、現在中国から蒙古族通信という本が出ているが、必ずタイトルには中国蒙古族、中国と入れなければいけない。しかしモンゴルの歴史は中国という枠組みを遥かに超えていると楊氏は明言し、しかし、現在の中国の述べる現代史では、モンゴル人の革命は中国革命の一部とされている。モンゴル人の望んでいるものは極めて素朴で、草原を守りたい、遊牧を維持したいだけなのに、中国は、草原を奪って農耕をしたいと考える。この根本的な対立は全く変わっていない、中国の歴史の一部に等なるはずがないと述べました。

そして、ボヤント氏の研究に続いて、ホルチン左翼後旗以外でも、内モンゴル全土各地からそれぞれの地域の現代史を書いた素晴らしい本が出てくる事を本当に期待したい、そして、現在の日本の大学で研究している人たちの中には、いわゆる中国における反右派闘争の研究を通じて、タブーを乗り越えて行こうとする人が沢山出ていること、ボヤント氏のこの本はそのような研究に途を拓く輝かしい業績だと講演を結びました。

休憩後、アジア自由民主連帯協議会会長のペマ・ギャルポ氏が登壇、先ほどの楊氏のお話を受けた形で、自らの恩師である木村肥佐生氏の名前を挙げ、木村氏はモンゴル語も堪能で、また戦前から戦後まで、モンゴルと日本の友好、連携のために様々な活動をされてきた、歴史の表には現れなくても、このように貢献した隠れた宝石のような方は沢山いると述べました。

そして、ボヤント氏の今回の研究について、彼は中国の内部文書をきちんと調べるために、5回も現地に帰り、その間2回ぐらい何と逮捕されてしまった、その際、奥さんが大変努力されて、周囲の人たちも、学費を彼がいない間も支払ってくれたり、沢山の人たちの善意の協力のおかげで研究を進めることができたことを御礼と共に述べました。そして、自分が彼の先生であることも、ボヤント氏にとっては中国当局ににらまれる結果にもなったと思うと述べ、苦しい状況下で研究を続けたボヤント氏を讃えました。

そして、日本の久寿や読者に分かりやすいように論文を書くことも大変だったと思う、例えば中国からきた留学生たちは、文章に「何々的」という言葉を使いたがったり、また、モンゴル人ならばすぐにわかる「旗」という言葉でも解説が必要だったり、そのあたりを整理しなければならなかった、しかしその上で、ボヤント氏は相当な覚悟を決めてこの論文を資料中心にまとめてくれた、例えば自分の知っているチベット人も博士号を取ったけれども、その研究テーマも最初はチベット政治史を扱う予定だったけれども、いろいろ事情があり、西洋思想とチベット思想の比較と言ったテーマに変えざるを得なかった、そのような状況下で、これだけの仕事をしたのは立派なことだと評価しました。

そして、今チベット、モンゴル、ウイグル人たちは、日本のような自由な国に行っても3つの権利が奪われている、一人ひとりの人間としての人権、民族としての民族自決権、そして一つの国家としての主権、この3つとも奪われている。この中で自分たちは戦っていくしかないし、言葉一つ一つの使い方、チベット族という言葉ではなくチベット人という言葉を使っていくなど、言葉の力を信じていくしかないと述べました。そして、例えばかって新渡戸稲造の武士道は英語で書かれ、実は日本語で読むよりも英語で読んだ時の方がはるかに感動を呼ぶ、それは、おそらく稲造が、彼の母国語ではないからこそ一生懸命書いているところに、その魂のようなものが宿ったのではないか、それが、今回のボヤントさんの論文にもあり、だからこそ、大学の先生方全員が彼の論文について博士論文として認めてくださったのではないかと述べました。

しかし同時に、今後、楊海英先生や、ボヤントさんの手法と全く同じやり方で論文を他のモンゴル人たちが書いていくのではなく、独自の研究対象、研究姿勢を開拓していかなければならない、そして「モンゴルからの視点」というのは大切なのだけれど、逆に、例えば中央アジアでは、チンギスハンは侵略者、悪魔のように描かれている歴史もある。歴史を研究し学ぶときに、ある程度主観、立場がなければいけないのと同様、他の視点を客観的に別の資料から学ぶことも忘れてはいけないと、若い研究者たちに呼びかけました。

そして、もしチベットにとって宗主権国家があるとすればそれはモンゴル、元朝時代であると述べた上で、日本人に特に言いたいのは、元朝は決して中国の王朝ではなく、モンゴルの王朝であること。チベットが元に朝貢したのも元朝がモンゴルの王国であって中国の国ではないことだと述べました。そして、このような事実を、こうして外国で語れることは大変大事であり、また過去を語るだけでは私達の未来はない、未来、私たちは何をなすべきかを考え、ヴィジョンを与えてくれる学者にも出てきてほしいと述べて講演を終わりました。

最後に麻生晴一郎氏がボヤント氏の友人として登壇、この本を制作するに当たり、微力ながら日本語の整理を友人として手伝ったこと、特に、ボヤント氏が恩師と再会する本書後半部の部分をぜひ注目してほしいことなどを述べました。午後5時に閉会、ボヤント氏の今後の研究への期待を懇親会でも参加者は熱心に語っていました【文責 三浦小太郎】